エッセイ 島津亜矢の歌声で、心の回帰 ~ 母の故郷「原町」を想いながら ~

この文章は、管理人がつい先頃まで運営していた、ブログ「極東の空から」に投稿したものです。島津亜矢に絡めながら、時期に関するものとなっています。内容としては、あまりにも個人的な思いであり、作成者としては、恥ずかしさでいっぱいです。しかし、綺麗事を言うつもりはありませんが、心のどこかで、忘れてはいけない、との思いがあります。エッセイと呼べる程、たいそうなものではないですが、敢えて文章の訂正をせず、当サイトに再掲載することに決めました。

 

全くの個人的なことに、同感する方もいらっしゃれば、そうでない方も、いらっしゃるでしょう。実に当り前のことですが、何程か感じ取っていただければ、作成者として、大変有難く思っています。この記事は、自分でも驚くほど長文となっています。しかし、複数のページに分けることも敢えてせず、一ページ内で収めることにしました。最後までお付き合いいただければ、幸いです。

 

管理人:シム (2011年6月7日 記)

 
 

2011年3月11日。

 

おそらくわたしは、この日を一生忘れないであろう。言うまでもなく、東日本大震災が発生した日である。この記事を書いている時点で、約3週間が経過しているが、復旧までの道のりは、まだまだほど遠いようである。わたしは、さいたま市に居住しているが、今回の地震による異常な揺れを経験した。

 

恥ずかしい話であるが、地震当日、徹夜続きだったため、昼間でも寝ていた。不思議なことに、夢現の中で、最近地震がないな、と思っていたら、小さな揺れを感じた。そうして、徐々に大きくなり、これは尋常でないと飛び起き、いつでも玄関の外に出られるようにした。次第に揺れのピークが過ぎ、徐々に静かになり、ふと背後を見ると、飼い犬が尻尾を丸めながら、じっとしていた。ついてきたのかと思い、その点では、ほっとした。これも恥ずかしい話だが、揺れがおさまった後、徹夜疲れが抜け切れず、再び横になった。

 

わたしの被害と言えば、人形が一つ倒れ、DVDと書類のいくつかが本棚から落ちた程度である。けれども、横になったわたしの耳に、風呂桶の水が、タップンタップンしているのが、聞こえて来た。ふた部屋ほど離れているが、もう一度眠りに入るまで、止むことがないように感じた。数時間後、目を覚まし、早速パソコンを起動した。あんな揺れなら、と思っていたら、ニュースサイトなどで、大きく取り上げられていた。

 

日本のサイトはもちろん、外国でも関心が高く、実は、最初に記事を見たのは、BBCのサイトだった。UK以外でも、ニュースのライブ放送を開放していた。わたしの記憶では、数日間、一日中、日本の地震のニュースを流していた。こんなことは、VPN経由でBBCを見るようになってから初めてだった。

 

 

けれども、当然、日本のニュースサイトもチェックした。現在でも続けているが、日に日に、地震による大きな被害に言葉を失っている。さらに、被害の中心が、東北であるということに、何とも言えない気持ちにもなっている。最近になって、自分の感情をコントロールできるようになったが、しばらくの間、一喜一憂している自分に覆われた。片付けなければいけない仕事があったが、なかなか手をつけられなかった。

 

わたしの母は東北出身であり、母の故郷については、色々な思い出があり、非常に心配になった。親戚などは、一体どうしているのか、母と連絡を取り続けた。結局、地震発生から数日後に、全員無事であると確認でき、そのことでは、安堵した。自然災害の犠牲者数では、戦後最大となっている今回の震災で、命だけでも無事であることは何よりだ。しかし、それだけでは済まないものが、わたし個人の中には、わだかまり続けている。東日本大震災が、大と名のつく由縁は、種々あるのだろうが、その一つが、津波だ。

 

わたしは、小学生の時、大型台風の影響で、家の一階部分が浸水した経験を持っている。今回の津波と比べものにはならないが、洪水の出来事は、今でもありあり記憶している。40を過ぎた今日でも、「水は速い」という認識に変化はない。今回の津波の映像をネットなどで視聴したが、みるみるうちに海水が侵入し、あっという間に、町を飲み込んだ。失礼な物言いかもしれないが、津波は、わたしが経験した洪水のもっと巨大なもの、と思った。

 

あるテレビ番組に出演していた専門家は、今回の津波の高さの計算は簡単で、スピードは人が全力で走った程度、とニヤニヤしながら解説していた。正義漢ぶるつもりはないが、心の中に、多少なりとも、怒りが込み上げてきたことは、正直な思いだ。けれども、津波の恐ろしさは、程度が全然異なるとはいえ、自分の洪水の記憶と重なり、避難所での難儀な生活に、自然と思いを馳せてしまう。

 

わたしの場合、自宅2階での避難生活だった。期間は一週間程度であったが、一家5人全員が、6畳ふた間で、時を過ごした。母はトイレに困るとのことで、わたしが通学していた小学校へ、早々に避難して行った。周囲が水没しているため、自由に買物へ行けず、自治会などから食事が支給された。非常に不便で、たとえ一週間程度でも、二度とあんな生活をしたくない、と思った。以降、毎年9月になると、台風が気になっている。引っ越しの際も、たとえ可能性が低いと理解していても、水の恐れ云々を、不動産屋に尋ねている。それだけ、潜在的に刻みこまれた出来事だった。

 

この程度の経験でも、なかなか心から抜けないのだから、今回の津波による被災者にとっては、わたしの比ではないであろう。当事者でないわたしには、お見舞申し上げます、という言葉しかない。しかし、今回は、津波の大被害とともに、日本ばかりでなく、世界をも巻き込んでいる大事故が発生している。

 

それが、福島第一原発だ。

 

すでに多くの人がご存知のように、福島第一原発は、福島県の双葉町と大熊町にまたがっている。海外のニュースでは、North Japan、あるいは、North Eastern Japanと立地場所の説明がなされている。上野駅から常磐線で北上すれば、福島県の浜通りを通過し、そのまま仙台へとつながっている。双葉町と大熊町も、常磐線の駅がある。わたしが幼い時、双葉高校が甲子園に出た。母と中継を見ていると、双葉だ双葉だ、と言っていた。そうして、その後に、「原高か双葉かに迷ってたけど、原高に決めたんだ」と話していた。

 

原高とは、原町高校のことである。もしかしたら、これでお分かりになる方もいらっしゃるかもしれない。原高とは、旧原町市にあり、現在の福島県南相馬市原町区の高校である。そう、わたしの母は、今、世間の注目を集めている福島県南相馬市の出身である。わたしは、幼い時から、母の実家を訪れていた。思春期を迎えてからは、数年に一度だったが、小学生の時は、毎夏のように、祖父母の元を訪れていた。明治生まれで、旧原町市の中学の教員をしていた祖父の威厳のあるような話し方と、染物屋で育ったという祖母の作った大きな握り飯が、幼いわたしの思い出である。

 

しかし、祖父とは、高校生の時から20代半ば頃まで、手紙のやり取りなどもした。個人的に日本というものを見直したくなり、特に戦前とはどういう時代だったのかを知りたくなった。書籍での知識だけではわからないことがあり、母がふと、「じいちゃんは、満州に行ったことがある」との話をし、これは聞かなくては、と思った。最初に手紙を書き、その後、何度か祖父の元へ行き、いきさつなどを聞いた。

 

正確には、2度、渡満したとのことで、一度目は満州国ができた翌年、二度目は戦争真っ只中の昭和17年である。一度目は家庭の事情で帰国したが、二度目は、同じ宿舎に赴任していた同僚と衝突したからだった。祖父が教員であることを馬鹿にしたらしく、それに腹を立て、言い争いになった末、帰国することを決意した。原町へ戻った後、当時は、地域の義勇軍というものがあったらしく、そこで活動を続け、終戦を迎えた。

 

わたしが聞いたことで忘れられないのは、祖父が教員に復職しようとしたところ、面接担当者の発した言葉だ。「君は、満州に行ったんだってね。だったら、侵略主義者だね」祖父は、国のために仕事をしたのに、なんでそんなこと言われなきゃいけないんだ、と憤ったとのことだ。教員への復職が懸念されたようだが、結局、話し合いの後、復帰でき、教頭まで勤め、定年を迎えた。

 

わたしが上記の話を聞いた時、祖父は80を過ぎていた。その場には、祖母や母、さらには、母の弟である叔父夫婦もいた。一杯飲みながらだったが、老いた風情ながらも、憤っている祖父がいた。祖母は、「じいさん、いい年なのに」などと言っていたが、祖父にとっては、悔しい思いであったのだろう。それから約10年後、祖父は他界したが、亡くなる数週間前、JR原町駅前にある病院へ見舞いに行ったことがある。ベッドに横になり、やせ細って動けず、なおかつ、目も見えなくなっていた祖父の姿に、わたしは、最初直視できなかった。あの矍鑠とした明治生まれの男は、どこへ行ってしまったのか、と思った。これが、人が最期を迎える姿なのだろか、とも思い、複雑な気持ちになった。

 

けれども、祖父にとって、満州の記憶は、いつまでもなくならなかったのだろう。わたしがお見舞いに行った時でも、意識が混濁することがあり、独り言をつぶやくことがあった。その中に、おそらく満州語が混じっていたように思う。わたしは、満州語を知らなかったが、わたしは○○です、という現代中国を覚え、祖父に話した。うむうむそうだ、と納得し、矍鑠とした姿が帰って来たように思った。そうして、「我是○○的日本人」と言うと、「ダダ・・・、文法が違う」と一喝された。現代中国語と満州語の違いであり、なおかつ、付け焼刃の自分の不勉強もあったのだろう。しかし、わたしは、どこかうれしかった。衰えが激しいとはいえ、話はできた。その中で、こんなことを尋ねた。

 

「これまでで、一番楽しかったことは、何ですか?」
「満州」

 

おそらくこれを聞いて、嫌がる人もいるだろう。本国中国では、偽満と言われ、大日本帝国侵略の象徴のようであり、大日本帝国の傀儡国家でもあった。けれども、重要なことは、今でも論争はあろうが、たとえ侵略であろうと、それは国策の話である。当時の一般人からすれば、満州には開拓の夢がある、という人間の冒険心をくすぐるような何かがあったのだろう。もしそういう冒険心を帝国主義の産物というのなら、それで仕舞いである。しかし、わたしには、そんな簡単なことで片付けられないものがあるようにも思っている。人の心というものは、そうそう単純なものではない。それは、現代の自分が、どのように生き、どう考えているかを思えば、どこかで理解できる部分はないだろうか?

 

一般人であれば、歴史の1ページには、人々、などと書かれるだけである。そうは言っても、そうい人々にも、主観があり、色々な思いや気持ちを抱えながら、生きていた。どの時代でも、どの国でも、その点に変わりはないだろう。帝国主義が冒険心を産み出したことも否定はしないが、冒険心は、帝国主義ばかりでない。人の心の闇の部分が関係しているのかもしれない。こういう点は、映画「地獄の黙示録」の原作とも言えるジョーゼフ・コンラッドの「Heart of darkness」が、見事に描いているように思う。個人的には、冒険心と知の欲求も、密接に関わっているように思う。未踏の地へ行きたいことも、考えて知りたいことも、どちらにも知らないことを知りたいという心が関わっていないだろうか? 

 

とにかく、祖父は、死ぬ間際まで、満州に思いを馳せていた。祖父が終戦を迎えた年齢は、今のわたしとほぼ同じである。祖父が満州へ赴いた年齢を、自分に当てはめてみれば、どことなく、わからないことはない。ただ違いは、祖父が国のために赴いたのなら、今のわたしが他国に赴くのは、自分のため、ということである。

 

ただし、祖父は、満州へ行った時、当時の日本人が中国人をバカにし、ずいぶんひどいこともした、と語っていた。孫のわたしの時代では、中国は、高度経済成長真っ只中であり、GDPで日本を抜き、世界経済大国第二位となっている。軍事力増強を懸念されているが、世界各国から注目を集め、政治とともに、経済でも、国際的なキーパーソンになろうとしている。時代の移り変わりとは、こういうことをいうのだろう。

 

また、わたし個人では、イギリスに興味があり、VPN経由で、毎日のようにBBCを視聴している。さらに、数少ないイギリスのメール友達が、今回の地震で、わたしが大丈夫かどうか、連絡をくれた。イギリスと言えば、祖父の時代では、大英帝国であり、植民地を多数所有していた。祖父の時代でも、陰りが見えていたとは言え、当時の大帝国であり、日本の敵国である。そのイギリスの敵だった祖父の孫が、メールのみとは言え、ユーラシア大陸の向うに友人がいるということも、時代の変遷であろう。もちろん、日本経済がイギリスよりも大きくなった時には、祖父は健在であったし、戦争世代が日本の高度経済成長を支えていた、ひとつの象徴かもしれない。

 

いずれにせよ、満州に特別な思いを持っていた祖父は、約10年前に亡くなり、21世紀まで生きることはなかった。祖母は、21世紀になって他界したが、それでも祖父の3年後である。どちらも、20世紀を駆け抜けた小市民であった。けれども、そんな小市民でも、人の思いを持ち、感情も有していた。そうして、必死になって生きながら、自分たちで築いてきたものが、確かにあった。そういう祖父母の残して行ったものが、今や危機に瀕している。

 

母によれば、祖父は教員の傍ら、畑仕事などもし、自宅周辺とはいえ、原町の一角を開拓していたようである。母も手伝ったようだが、おそらく戦争などの食糧難が、そういう畑仕事に駆り立てさせたのかもしれない。そして、もう一つ、わたしの個人的な思いでは、そこに満州では果たせなかった夢を重ねていたのでは、ということだ。祖父は、教員らしい言葉で、大陸は広大無限、日本人のクヨクヨ心が放散される、と語っていた。祖父の家に行く度、その広大無限をわたしは感じてしまう。そうして、それは、わたしにとって、東北全体に繋がっている。差し詰め、わたしにとっては、東北は広大無限、都会人のクヨクヨ心が放散される、というところだ。

 

わたしと母は、旧原町市が合併を迎えてからも、南相馬と言わず、原町と呼んでいる。上野から常磐線、あるいは、大宮から東北新幹線経由でも、原町へ行ったことがある。あの独特の空間は、わたしの潜在的な日本となっている。もしかしたら、自分が生まれ育った武蔵野台地の匂いと小山がありながらも、横に海が広がり、田畑が周囲に敷き詰めている原町への道程が、わたし個人の日本の原風景かもしれない。原町へ向かう電車、特に上野から常磐線で北上すると、ところどころに、門口に繋がれた馬の姿が見える。母屋に馬を繋ぐ風習は、東北独特の文化であり、西日本にはないそうだ。原町は、相馬野馬追も行われ、実は、祖父の家の近所にある雲雀ヶ原というところでも、毎年夏に開催される。

 

母とはいつも、野馬追の頃になると、行くか行かないかと話し、結局、何年も見送っている。祖母が、馬が家の側、トコトコ行くっと、などと語ったことが、時期が近付くにつれ、自然と思い出される。かつて、東北の馬は、武士に好まれ、良質な馬との評判だったようだが、専門家ではないわたしでも、馬が身近であることに、納得している。けれども、原町は、あまり有名なところではない。野馬追はあるが、他県の東北人でも、北の相馬市との思いがあるようだ。学生の時、山形出身者に話したら、相馬か、と言われた。東北でそうなら、全国ではなおさらである。

 

いわばマイナーな土地であり、そうであるからこそ、わたしの中では、秘密の逃げ場所のように思っていた。心の棘、という言葉があるが、まさに、わたしにとって、原町は心の棘のようだった。それが、今や、世間の注目を集めている、福島第一原発と関係している。いや、直結していると言えるだろう。南相馬市と聞けば、もしかしたら、外国でも知っている人がいるかもしれない。市長が、NHKに登場したり、You Tubeに動画を投稿したりしているが、南相馬市役所は、旧原町市役所である。わたしの地元で言えば、旧浦和市役所が、さいたま市役所になったようなものだ。合併の中心であったが、今では、原発事故の当事者となっている。多少は改善されているようだが、人もいなくなり、物資も届かなくなり、陸の孤島のようだ、と市長がNHKの番組で語っていた。祖父の家は、JR原町駅からそれ程遠くなく、南相馬市役所もそうである。わたしには、驚きとともに、やはり、やるせない思いも募っている。

 

原発事故が発生し、退避指令が5キロ、10キロと拡大され、自宅退避が20キロから30キロとなった。祖父の家は、原発からおおよそ25キロ程のところであり、わたしの今の住まいから大体日本橋までの距離と同様である。自宅退避圏の真っ只中だ。人がいなくなった、物資が届かなくなった、との報を聞き、心が沈んで行ったことは、想像できるかと思う。チェルノブイリでは、原発から30キロ圏内は、現在でも立ち入り禁止とのことだ。それを聞いた時、原町へ行けなくなるのか、という思いがもたげた。そうして、なんとかしたくてもできない自分にいら立ち、もどかしい思いも出て来た。母とも連絡を取り合っていたが、お互いどうにもしようがなく、最悪はいけなくなるね、で終わりだった。祖父の家も、周囲の馬の風景も、山と海と田畑のある風景も、二度と見れなくなるのか、と思ってしまった。いや、今でも思っている。

 

わたしは、政府や会社などへ不平を言う前に、自分で生きることが先だと思っている。それは、今でも変わらない。けれども、福島第一原発の事故に限っては、自分で自分を知る限り、初めて怒りのようなものがもたげて来た。今回の原発事故が、自分の心の棘に刺さったような気がし、悔しさとともに、悲しさが出て来たことは、否定しようがない。世の中に完璧なものはないと言えば、そうであろうが、祖父の満州の話や祖母のおにぎりなども、すべて消えてしまうかと思うと、どうにもしようがなくなる。「ゆく河の~」という思いは、今でも持っている。しかし、それを完全に受け入れられるまでには、やはり、種々の葛藤があるのではなかろうか? おそらく鴨長明も、そういう心の有り様を何度も経験し、「ゆく河の~」に辿りついたのではなかろうか?

 

それを証するように、「方丈記」には、彼が見た災害の様子が、種々描かれている。山折哲雄が、産経新聞で、今回の震災と「方丈記」のことを語っていたが、共通点を見つけてしまうことに、納得している。自分の人生の中で、最も大きいと言える異常な揺れを経験したことも重なり、そうして、今回は、心の棘にも関係している。感情を抑えられない自分が生じたことは、恥ずかしい話であるが、本当のことだ。

 

一体、福島第一原発は、どうなってしまうのか?

 

専門家でも分からないものを、素人であるわたしが、予見できる訳はない。しかし、今後、電力供給源となりえないことは確かだろう。周辺住民も福島県民も、許しはしないだろう。もっと言えば、福島第一原発からの電力を利用している首都圏住民も、それには、同意するであろう。ならば、個人的には、やはり、原町へ再び行けるのか否か、そのことに最も関心があるのが、素直な思いだ。福島第一原発の水素爆発の映像は、BBCのサイトで初めて見た。シーンとした中で、突然、コンクリートの天井部分が吹き飛び、灰色の雲のようなものが、一直線に上空へ伸びていた。わたしは、直感的に、典型的な化学爆発だ、と思った。水素が原因ということで、もしかしたら、純粋な化学物質とは、言えないのかもしれない。けれども、これもまた、わたしの経験から来ている。

 

実家の近くには、化学燃料会社の工場があり、今まで2度、大きな爆発事故を起こしている。1度目は、わたしが引っ越す前の話であるが、近隣の家の窓ガラスなどを割り、補償額を支払ったとのことだ。2度目は、わたしが経験したもので、夜テレビを見ていたら、突然、ドーンと音が鳴り、地震でもないのに、家がガタガタと激しく揺れた。結局、被害がなかったので、補償ということはなかったが、お詫び状が届けられたことを記憶している。

 

その時の経験が、福島第一原発の爆発映像に重なった。近隣住民のインタビュー映像も見たが、突然ドーンとなって、家がガタガタして、また大きな地震かと思った、とのことだ。化学工場の爆発と似たように感じてしまうことは、お分かりいただけるかもしれない。また、別な建屋での2度目の爆発映像も見たが、やはり、感想は、典型的な化学爆発だ、というものだ。姿もなく、匂いもなく、突然起こり、怖さが先立つのは確かである。しかも、大量破壊兵器の一つである原爆の燃料と同一のものを使用している。ああいう映像を見れば、なおさら恐怖が先立つだろう。いくら政府が冷静に、と言っても、なかなか納得できない面もある。しかし、状況が深刻であっても、できる限り、落ち着き、各種情報に接することが、素人であっても、大事なように思う。

 

インターネットでは、色々な情報が発信されているが、一層不安になるものもあれば、言われている程ではない、と思うものもある。専門家でも、そういうものがあり、どれを信じていいのか、わからなくなる。けれども、科学というものは、そもそもそういうものではないだろうか?

 

わたしは、方々で、科学は人間の一つの見方と言っている。世に科学信仰というものがあるが、それは、科学が全てを解決できると、信じているか、あるいは、奢っていることから起きている。しかし、そもそも科学は、わたしが理解する限り、仮説を立て、実験をし、そこから分析できたことをまとめる。確かに、現在の科学は優れ、自動車や飛行機、あるいは、ビルのエレベーターなども、科学の産物と言えるだろう。そういうものも、科学者の成果であり、文明の利器の象徴でもあろう。そうは言っても、先に行ったように、科学は、仮説と実験を基本とする。どれも、人間が作り出したものであり、証明と言われる実験も、実は、人間が仕立てた条件下での話である。つまり、本来の環境下での試みではないということだ。

 

よくコンピュータプログラムで、バグと言われる欠陥が、リリースされた後に発見されることがある。リリースされる前にも、テストが何度も行われ、わたしは、パソコンの最終評価の仕事をしたことがあるが、それでも、バグが完全に見つかることはない。要因はいろいろあるが、ユーザーの様々な環境下で、予期せぬことが起きてしまうことが、当り前のようになっている。パソコンの評価と科学全般を結び付けることに、異論がある人もいるかもしれないが、パソコンもまた、科学の産物であり、科学の一面でもある。何を言いたいかと言えば、いくら事前のテスト(実験)を重ねても、完全に障害をなくすことは不可能だ、ということだ。

 

そのため、科学の世界、敢えて言えば、真の科学者であれば、自分の仮説が実験で証明されたとしても、その確率が高い、という表現をする。すなわち、真の意味での科学とは、確率を導き出すことのように思っている。現代医療の主流である近代医学も、科学の一つであろうが、治験を経た薬の中には、効果が3割ほどでも認可されているものがある。認可の方法にも、改善の余地があるのかもしれないが、もしかしたら、認可された薬で3割効果があれば、3割も、と言えるのかもしれない。

 

別に煽るつもりはないが、それだけ確実なものではなく、確率の上で、科学が成り立ち、なおかつ、現代社会の礎にもなっているのだろう。だからこそ、観察を続け、データを集め、それを元に分析しなければ、何らかの回答を得られることはない。卑近な例であるが、風邪薬が、多くの人に効果があるのは、それだけ身近な病気であり、それだけデータが豊富であるからこそ、確率が高くなっているのかもしれない。言ってしまえば、何らかの経験値の集積がなければ、科学は、より正確な結果を導けないということだ。それを考えれば、地震予知がいかに難しいことであるか、わたし個人としては、納得している。

 

こういう確率の世界は、原発においても、同様であろうと思う。種々の情報の中でも、漏れた放射性物質を、一年間浴び続ければ、あるいは、一日浴び続ければ、人体に影響があるというものがあり、なんらかの条件下での危険性の警鐘である。仮に、一年間、あるいは、一日いなければ、影響がないということだ。この点を、「朝まで生テレビ!」に出演していた放射能専門家は、面で考えて、と言っていたが、そういう専門家的な言葉でなく、単に、ある程度の期間を念頭に、と言った方が、分かり易いように思う。

 

もっとも、情報それ自体がいい加減、と言えば、それまでであり、それを訴えている人もいるが、そうなれば、懐疑主義となってしまい、ますます不安になってしまう。けれども、どこかで、答えを得れば、多少なりとも、不安は安らぐだろう。先に、専門家の中でも意見が分かれていると言った。また、情報が正しいという人もいれば、隠ぺいされているという人もいる。それらを考えば、結局、わからないことがわかっている、というのが、現状での正確な見方のように思う。ならば、もしものために備えるように、物を用意することも大事だろうが、心の有り様を持つことも大事ではなかろうか? つまり、今を大切にするということだ。

 

そう言ってるわたし自身も、こう思えるようになるまでは、おろおろしていた。怖さというよりも、やはり、原町に行けなくなるのか、ということが、わたしにとっては、第一のことである。仕事に手を付けられるようになるまで、ニュースを見てばかりだった。今の自分にとって、重要になっているBBCでは、ドラマを見る気にもなれなかった。そうして、島津亜矢関連のサイトを作っている途中であるが、続きをすることもできず、また、彼女の歌自体を聞くこともできなかった。情報が錯綜、とあるが、政府や東電のせいもあるのだろう。情報が少ないため、憶測が憶測を呼び、結局、ガセネタなどの元になっていることは、否めないことかもしれない。そうであっても、やはり、気になるものは気になり、何もできないが、何かをしたいと思い、仕事そっちのけで、ニュースサイトなどを眺めていたことは事実だ。

 

しかし、時は、残酷で、優しくもある。仕事の締切が数日後の段階になって、ようやく多少冷静になり、ニュースサイトを見る時間が少なくなった。そうして、BBCのドラマを見て、日常の自分が帰って来たようで、ほっとした。さらに、今の自分にとって、最も心が落ち着いたのが、島津亜矢の歌声だった。正直、こんな時に、彼女のファンサイトなんて作っていいのか、と思った。おれはなにをしようとしてるんだ、こんなことして無意味ではないか、とも思った。けれども、ある意味、仕事があったおかげなのかもしれない。締切間近で、心に冷静さが生まれ、島津亜矢の歌声に耳を傾けた。そうして、祖父母の姿と、その周囲の東北の風景が、頭に浮かび、悔しさと悲しさとやるせなさと怒りがもたげて来た。しかし、島津亜矢の厳しいながらも優しさのある歌声に、もどかしい心が昇華され、わたしの衝動のような鼓動が、静かになった。

 

悔しさがあるとしても、その裏に、未来がある。
悲しさがあるとしても、その裏に、喜びもある。
やるせなさがあっても、その裏に、諦めがある。
怒りがあるとしても、その裏には、許しもある。

 

すべてがすべて打ち消されるようで、わたしは、島津亜矢の歌声に、いつも感じていたことを取り戻し、こんなことを思った。

 

「おれのできることは、日常での振る舞いだ」

 

正直、これを書いている時点でも。思い返せば、切りがない。悔しさや悲しさが消えることはない。それでも、大事なことは、自分の目の前のこと、そう、先でも言った、今を大切にすることだ。大袈裟かもしれないが、「我思うゆえに我あり」であり、「青い鳥」であり、「ぼくはここにいてもいいんだ」というものと共通しているように思う。端的に言えば、現在のわたしは、ようやく、多少なりとも、自分の感情をコントロールできるようになったと思う。個人的には、勇気を与えよう、などとは言えない。それは、社会に影響力のある人の言葉だ。やはり、わたしにできることは、目の前のことだけだ。仕事もそうである。計画停電もそうである。無駄な買物をしないこともそうである。あんたは無抵抗、という人もいるかもしれないが、敢えて言えば、無抵抗の抵抗、ということもある。

 

さらに、今の自分ができる最大限のことは、単なる感想であろうと、無駄な言葉であろうと、このような記事を書くことだ、と思った。他のところで、同じようなことをするかはわからない。しかし、今回は、どうしても、自分の想いを書きたいと、小市民ながらも、生意気に思った次第だ。もし福島原発の事故がひと段落し、原町まで自由に行けるようになれば、わたしは、是非行きたい。知る限りでは、常磐線はまだまだ回復の見込みがない。自動車を運転しないわたしは、道路が復旧しても、好きに行く手段がない。歩いて行くという方法もあるのだろうが、方々に迷惑をかけることは、それこそ、失礼である。コントロールできるようになったとはいえ、もどかしさは抜けない。さらには、風評被害があることも、予期できたとは言え、わたしは、好きではない。正義感ぶるつもりはないが、放射性物質が検出された産地の野菜であっても、市場に出ている限り、わたしは、食べ続けるつもりである。

 

東北と言えば、明治維新後、戊辰戦争の影響からか、「白河以北一山百文」と言われた。福島県白河以北の山は、百文の価値しかないという蔑んだ意味での言葉である。時代が変わっているとはいえ、今回の震災で、再びもたげてこなければいいが、と思っている。被害の大きさもさることながら、復興に手間取るようなことがあれば、再来している、と見なすようになるかもしれない。特に、福島の場合は、原発とも絡み、なおさら、気になるが、21世紀の世の中では、杞憂であることを祈りたい。しかし、自分の経験から、どこかで問題が起きて来るかもしれない、という思いは、拭えないことである。

 

もしそうなっても、わたしは、落ち着いたら、原町に行こうと思っている。いつになるかはわからないが、すでに母の故郷を越えていることは確かであり、わたしにとっては、いつまでも、「自分のいなか」であることに変わりはない。東北と言うと、わたしは、宮澤賢治を思い出す。「春の修羅」、「農民芸術概論綱要」、あるいは、種々の童話など、好きな作品がいっぱいある。けれども、今であるなら、雨ニモマケズかもしれないデクノボーの精神は、こういう時こそ、重要であろう。そして、わたしは、これも個人的な想いが強いが、やはり、島津亜矢の歌声に、一種の安らぎを得る。想いが募ったとしても、もう一度自分の立脚点に回帰でき、そうして、今すべきことを改めて思い知らされる。持ち歌であろうが、そうでなかろうか、関係のない話だ。

 

「流れて津軽」で東北に想いを馳せ、「漁歌」で悲しみを享受し、「なみだ船」で昇華する。「まつり」と「YOSAKOI祭り唄」で、心の痛みを和らげ、「大器晩成」で日常に戻る。

 

歌には、人を奮い立たす、何かがある。ニーチェの言う生きる力が駆り立てられる。綺麗事のような言葉よりも、歌の方が、もっと大きなことを伝えられる。歌がなくならない理由は、そんなところにもあるのかもしれない。わたしは、これからも、原町に想いを馳せながら、島津亜矢の歌声に、耳を傾けて行くだろう。

 

非常に長文になったが、最後に、祖父からもらった言葉を掲載しておく。Jリーグ名古屋の監督であるストイコビッチが言った、Everything is difficult, but everything is possible.(全ては困難であるが、全ては可能である)と呼応しているように思う。つまらない綺麗事は意味がないと言ったが、この言葉には、そう思えない。

 

「なせば成る なさねば成らぬ何事も ならぬは人の成さぬなりけり」

 

ここまでお読みになっていただけたら、誠にうれしい限りである。生意気なことばかり述べて来たが、読んだ皆さんに何ほどかを残せたら、わたしとしては、それだけで十分である。

 

 

2011年4月4日(月) ブログ「極東の空から」(終了)へ初投稿

 

 

 

原町火力発電所付近(北泉海水浴場) 2011年6月撮影 : 2015年4月追加

 

 

※ 母、叔父、叔母と同行。幼い頃、母や祖父などと遊びに来たことがある。

 



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