温もりを持ちながらも、静かな鼓動を醸し出す 女優・須磨子

松井須磨子が「カチューシャの唄」を発表したのは、1914(大正3)年です。第一次世界大戦が始まった年であり、まさに、歴史とともにある流行歌、と言えます。2009年になりますが、VPNプロバイダ経由で、BBC World News Todayを視聴したところ、第一次世界大戦の最後の生き証人が逝去した、というニュースが流れていました。

 

わたしの祖父は、明治末頃の生まれであり、「カチューシャの唄」が発表された時は、少年時代にあたります。しかし、その祖父も、約10年前に亡くなり、3つ年下の祖母も、その3年後に息を引き取りました。「カチューシャの唄」をオンタイムでご存知の方は、もしかしたら、ほとんど、いや、まったく、いらっしゃらないかもしれません。それだけ、時代が進んでしまったとも言えるのでしょう。けれども、松井須磨子の事件は、もしかしたら、今日でも語り続けている人がいるかもしれません。

 

松井須磨子は、作家である島村抱月と関係を持っていました。今でいう不倫にあたりますが、約100年近く経った現在でも、二人の墓は、別々にされていると言います。日本人は、死んだら皆カミサマになり、あの世では平等の扱いを受ける、という信仰があると言いますが、確かにそういう面はあるでしょう。おそらく、祖先信仰などは、その典型であり、ご先祖様は、何代前であろうと、ご先祖様かもしれません。しかし、その一面で、日本には、情念の思想があるとされ、韓国の恨(ハン)に当たる怨(えん)の考えがあると言います。

 

何年か前の日本製ホラー映画で、この怨(えん)の字を使ったものがありましたが、怨念と言えば、日本の古典でも、散見できると思います。わたしは専門家ではないですが、学校教育でも取り上げている「源氏物語」の中にも、この怨念が表現されています。また、有名な「耳なし芳一」も、平家の霊に祟られ、それもまさしく敗れた武家の怨念によるものです。つまり、日本の信仰の中には、死んだ後でさえも、怨みを持ち続けるという情念の考えがあるということです。これに似たものに、「地獄の思想」を唱えた人もいます。

 

また、太宰治は、「思ひ出」という小説の中で、地獄絵の怖さを描いています。どこの国でも、光と影、あるいは、表と裏などの二面性を有していると言えますが、日本もまたそのうちの一つということでしょう。もしかしたら、松井須磨子が、島村抱月と一緒に埋葬されないのも、そういう怨みのようなものが関係しているのかもしれません。霊が祟っているから、という訳ではなく、彼らの周囲のものが、まだまだ彼らの関係を許さないということなのでしょう。その心情が、怨念の思想に似ているのでは、ということです。

 

そうは言っても、松井須磨子と島村抱月の関係は、大正時代においては、大きな出来事であり、しかも、世の中が、単なるスキャンダルで終わらせなかったとも言えます。昨今話題になった豚インフルエンザですが、事あるごとに、スペイン風邪と比較されていました。世界的に大流行し、島村抱月は、スペイン風邪に罹患し、亡くなりました。松井須磨子は、その2か月後、舞台公演を終え、後追い自殺をしました。ほとんど心中と言える事件でしょうが、作家の死、歴史的な流感であるスペイン風邪、舞台女優との恋仲が重なり、人々の心から離れられなくなっているとも考えられます。

 
 

島津亜矢の「女優・須磨子」には、そういう大きな出来事という雰囲気はありません。けれども、須磨子の心情が語られ、そうして、抱月先生という言葉も出て来ます。さらに、彼女の孤独感も、詞の中で描かれています。言い換えれば、島津亜矢の「女優・須磨子」は、一人の舞台女優の心の中を主とした一曲となっています。

 

正直、2009年に発売されたCDマキシシングル「浦里」のB面に当たる曲で、あまり知名度はないかもしれません。しかし、松井須磨子という人物を知りたければ、一人の作詞者の視点であるとはいえ、この歌に耳を傾けるだけでも、少しはかいま見えるかもしれません。

 

島津亜矢に焦点を当てれば、わたしには、温もりを持ちながら、歌い上げているように感じます。悲哀がありながらも、どこか楽しげな感じもし、いずれ旅立つという前ぶれが、島津亜矢の重厚感とともに、こちらにじわりと伝わって来るようです。彼女の持ち味は、熱情になるのでしょうが、それをそっと押しこめながらも開放している、そんなようにも思います。わたしには、「風そして花」にも通じるように思いますが、やはり、島津亜矢の幅広さを、しっかり表現しているということです。

 

けれども、率直なことを言えば、あまりにも直接的な表現であると思います。これは、わたしの趣味趣向ですが、もうワンクッション入れた歌詞にしたとしても、松井須磨子の心の中を描けるのでは、と思いました。さらに、素直なことを言えば、島津亜矢の力量と「カチューシャの唄」の何小節かが含まれた曲調が、マッチングしたおかげで、楽曲の一つとして成り立っていると思います。表現としての歌詞は、わたしの好きな部類には入りません。(^。^)

 

とはいっても、こういう温もりのある島津亜矢も、わたしは嫌いではありません。熱情や魂は、どうしても、外の方へ猛烈に吐き出すイメージがあります。祭りなどは、その典型でしょうが、熱情や魂は、それだけでもないように思います。そっと内に秘めながら、入口を狭くし、そうして、ピンポイントで、何かを表現して行く、そういうものでもあるでしょう。キリスト教は、外に神を見出しますが、仏教は、内の中に仏を見出します。その融合を計ろうとしたのが、西田幾多郎とも言えますが、それはまた、別の話になってしまいそうなので、ここで止めておきます。

 

いずれにせよ、熱情や魂は、外ばかりでなく、内にありながらも、静かに騒ぎ出します。むしろ、熱情や魂があるかこそ、そうなるのかもしれません。大袈裟かもしれませんが、島津亜矢の「女優・須磨子」には、そういう熱情や魂の静かな鼓動を感じてしまいます。直接的な詞のあり方については、あまり好みではないですが、この歌の曲調については、嫌いな部類ではありません。特に、「カチューシャの唄」の旋律は、わたしのお気入りの音色でもあります。

 

できたら、島津亜矢の「カチューシャの唄」も聞いてみたいですが、現時点で、彼女が歌ったという事実を知りません。ファンク亜矢と同様、カチューシャ亜矢も、わたしの密かな願いとなるかもしれません。

 

付録
 

夜空を見上げた あの先に
あなたが わたしを待っています

 

この世で忍んだ物語
想いはひとつ 悔いはなし

 

わたしを抱いた面影が
三日月模様に彩られ

 

わたしに来いよと叫んでます

 

わたしもすぐに旅立ちます
わたしもすぐに向かいます

 
この舞台 わたしの最期の花道です

 

 



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