女としての「はは」からの叫び 黒百合の歌

島津亜矢の「黒百合の歌」を初めて聞いた時、すでにお決まりのセリフですが、上手いなあ、と感じました。けれども、この曲を聞いていくうち、ふと、ある言葉が出てきました。

 

叫び。

 

少々悔しいのですが、かつて特別な関係にあった女性が、この言葉を使っていました。彼女は、椎名林檎やCoccoが好きで、当時わたしは、柴田淳にハマり始めた時でした。もちろん、彼女にも柴田淳の曲を聞かせましたが、その時、彼女が言いました。

 

「柴田淳は、語りだよね。私は、椎名林檎やCoccoのような、叫びが好き」

 

最初は、なに?、という感じでしたが、時間が経つうちに、なるほどな、と思いました。現在、その彼女とは赤の他人になっていますが、この感想については、今でも面白いなと思っています。

 
 

歌詞は、一種の詩でもあり、色々な想いが込められています。全くのイメージのみでも創作できますし、あるいは、自分が感動したことをそのまま綴ってもいいでしょう。さらには、あるメッセージを込めたり、考え方などを表明したり、詞と詩の間には、具体的なメロディーを乗せるという違いだけで、意味としては、大きな相違はないかもしれません。そういう詞と詩の関係は、必然的に詞が詩になることでもあります。詩の中には、心の中からどうしようもない想いを綴ったものがあります。それが叫びであり、極端なものでは、言葉が言葉でなくなっています。

 

一方、語りは、言葉を言葉の形を残したまま、なにかをとうとうと述べることだと思います。そこに理屈や理論を入れようが入れまいが、言葉の形をし、言葉のまま、何かを、それこそ、物語ることだと思います。以前のわたしは、叫びのような詞や詩が嫌いでした。疎ましいだけに思い、静かでありながらも、深さを感じられる語りが好きでした。しかし、年とともに多少丸くなったこともあり、今では、叫びも語りも、どちらも嫌いではありません。もしそうでなかったら、昔の女の言葉を記事にはしていません。(^。^) とにかく、この叫びの視点は、非常に興味深いものです。ここでお分かりになった方もいらっしゃるかと思いますが、「黒百合の歌」は、まさに、この叫びのように思います。

 

 

極論かもしれませんが、この歌は、「ああ」の繰り返しに尽きると思います。「ああ」の繰り返しに、歌詞の主人公の想いが、すべて込められているように感じます。素人の見方ですが、織井茂子の歌い方には、独特のものがあるように思います。特に、この「ああ」には、笑いにも取れるような感じがし、少々怖さも秘めています。オンタイムで聞いたことのある、年配の方の中には、「黒百合の歌」は、織井茂子が歌う以外、誰も叶わないと思っている人もいるかもしれません。それだけ、独特の味があり、一度聞いただけで、決して忘れられないように思います。

 

どこか神がかり的な感じもし、アイヌの神のタブーを見事に表現していると思います。織井茂子の様相も、占い師や巫女のようでもあり、もしかしたら、邪馬台国の卑弥呼は、織井茂子と似ていたのでは、とも思ってしまいます。(^。^) けれども、このサイトの主人公である、島津亜矢の「黒百合の歌」も、わたしにとっては、忘れられないものになっています。感応する心 流れて津軽でもお話していますが、島津亜矢の歌い方には、「はは」を感じます。その「はは」もまた女であり、女としての「はは」というものも、当然、その中に含まれています。

 

わたしは、織井茂子には、妖しさを感じます。島津亜矢には、妖しさとともに艶やかさも感じ、妖艶さが表現されているように思います。島津亜矢の歌い方には、色気があると言われていますが、わたしも、そう感じます。島津亜矢なりの「はは」を伴った色気であり、そういう歌い方をする人には、なかなかお目にかかれないように思います。端的に出ているのが、先頃「BS日本のうた」で披露された「おさらば故郷さん」に思います。何度聞いても、独特の色気を感じ、もちろん、その上手さにも、惚れ惚れします。(^。^)

 

 

また、織井茂子の妖しさは、どうしても卑弥呼と連動してしまいます。そのため、自然と弥生時代の埴輪がイメージ化されてしまいます。一方、熱烈なファンの方には失礼かもしれませんが、島津亜矢を見る度、その容姿も相まって、縄文時代の土偶を連想してしまいます。もちろん、島津亜矢の歌い方にも、どこか「大地」との触れ合いを感じ、それが土偶と結びつく一因ともなっています。

 

埴輪と土偶。

 

「黒百合の歌」が、アイヌと関わっていることが、なお一層、そんな対比を生み出しているのかもしれません。

 
 

ところで、「黒百合の歌」のリズムには、映画「七人の侍」の効果音に似たものを感じます。どちらも、日本映画黄金期である1950年代に発表され、これから日本が戦争から立ち直って前向きに生きて行こうという時代背景もかいま見えます。また、そういう高度成長の始まった年代に、「黒百合の歌」のような叫びが、誕生したことは、ある意味、バランスが取れていた証拠なのかもしれません。

 

よく言われることですが、暗い時代程、明るい歌が流行り、明るい時代だからこぞ、暗い歌が人気を呼ぶと言います。仮に今の時代に、「昭和枯れすすき」のような曲が、人々の注目を集めるでしょうか?数年前に話題になった「蟹工船」のようなブームが、到来するでしょうか?わたしには、そうは思えませんが、皆さんは、いかがでしょうか?

 

ともあれ、時代が変われば、表現も変わり、かつてと現代の叫びでは、異なったもののように、見受けられます。しかし、それは、表面上の相違であり、実は、その奥にあるものは、あまり変わっていないようにも思います。万葉の昔から、男女の恋愛が歌われているように、人の感情というものは、昔も今も、そして、洋の東西も、あまり違いはないのかもしれません。ただし、表現の仕方などに好き嫌いが生まれることは、当然のようにも、思います。それは、主観という厄介な代物があるためと、「個人的」には思っています。

 

叫びは、ある意味、純粋な感情の吐露であると思います。もし純粋という言葉をキーワードにするなら、40代に入ったわたしとはいえ、今でも、島崎藤村の「初恋」という詩が、好きです。良い年して、どうしようもないですが、良い年だから、そういう純粋さに憧れるとも言えるのでしょう。

 

またまた関係ないようなことを勝手に述べてきましたが、今回は、これまでになります。

 

 



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