感応する心 流れて津軽

「流れて津軽」は、2006年にリリースされているので、ファンの方々ならすでにご存知かと思います。新参者のわたしは、2010年になって、初めて聞きました。実に新鮮に感じられ、なおかつ、心に響くものがあり、同時に、島津亜矢を島津亜矢たらしめている曲にも思います。この曲は、多くの歌手に受け継がれ、その度に、CDもリリースされていますが、もしかしたら、一般的な知名度が、低い曲かもしれません。しかし、「よされ」を繰り返すことで、本州最果ての津軽に辿りついた心境が、聞いている者にも伝わり、なおかつ、雪と女の心が、見事に融け合っている曲に思います。

 

わたしの母は、津軽ではないですが、東北の出です。十代のうちに東京に出て来たとはいえ、幼い頃に培った土壌というものは、なかなか抜け切らないのでしょう。今でも「ごせいやける」などど言っています。子であるわたしが、それらを聞いて理解可能なのは、家庭環境のなにものでもありません。わたし自身は、浦和の出なので、あまり故郷意識はありませんが、故郷を懐かしむ心情は、理解できるつもりです。特に、東北に関係することは、どこかしら判官贔屓している自分が存在し、それもまた、母の影響であり、逃れ難い環境というものの証でしょう。

 

若い頃は、そんな想いが高じ、梅原猛の縄文論に触発され、みちのくひとり旅を敢行しましたが、なんだかんだ言っても、わたしの東北は、両親を通じたものです。相手からみれば、所詮、トーキョーモンでしかなく、今は、単に親しみを感じる、という程度であり、若い時分より、冷静であることは確かです。そんな東北に対する感情が、この曲に反応したことは、否定できません。流れついた先が、津軽という時点で、自己への痛切な悲しみを増幅させ、太宰治を連想してしまうのは、わたしだけでしょうか?

 
 

そう言えば、島津亜矢は、熊本の出身でした。「島津亜矢2005年全曲集」に収録されている「おもいで宝箱」には、「火の国」というフレーズが出てきます。「火の国」は、古代九州地方の名称とされ、わたしの知る限り、現在は熊本県の別名です。手塚治虫の有名な漫画に「火の鳥」がありますが、その中で、「火の国」が登場します。狩猟を主にした先住民のような部族が描かれ、おそらく縄文人がモデルでしょう。

 

最終的には、渡来系民族に滅ぼされてしまいますが、弥生人による征服をイメージしているようにも思います。日本古代史に興味があるようでしたら、推察が付いているかもしれません。「火の国」には、中央政権に従わない民族がいたとされています。それが「熊襲」や「隼人」と呼ばれた人々です。正直、残された文献や遺跡などからの判断であり、後年になって、異なった説が出て来るかもしれません。しかし、まつろわぬ民と言われた人々がいたという言い伝えは、そういう話があることだけで、興味深いことです。

 

文学者を目指していた柳田国男が、岩手県の伝説などを集めた「遠野物語」は、非常に有名な書籍です。これを編纂しようと思った理由が、日本の先住民の末裔が、山の民ではないか、ということです。その山の民とは、縄文人の後裔であり、日本の裏面とも言える先住民族との歴史が、ほのかに浮かびあがって来るようです。柳田国男は、後年、山の民の研究を中止しました。民俗学者の中には、非常に批判的な人もいますが、わたしのような小市民でも、彼の考えの一端を伺い知れるだけの足跡を残したことは、柳田国男の功績と言っても、過言ではないと思います。

 

また、縄文人については、古代東北、あるいは、東北の一部を称していた「陸奥の国」においても、後裔が存在し、「陸奥の国」には、現在の青森県も含まれています。その後裔の人々は、「蝦夷」と呼ばれ、近世からはアイヌの人々を指すようになりました。わたしの知る限り、アイヌもまた、縄文との関係が深いようです。こうして見ると、「火の国」には、「熊襲」や「隼人」が居住し、「陸奥の国」には、「蝦夷」が存在し、現時点では、どちらも縄文人と深い関わりがあるように見受けられます。

 

言うまでもなく、津軽は、青森県の一地域であり、東北地方の一部です。東北に対し、より悲哀などを感じてしまうことは、感じる側の心理作用もあるでしょうが、そればかりでもないのかもしれません。こういう点を鑑みると、飛躍しすぎるかもしれませんが、非常に面白い見方が浮かんできます。「火の国」出身の島津亜矢が、津軽を歌うことで、なおいっそう、情念が増幅され、そこには、歌自体も含めた歴史の重みが絡みつき、いわば、魂のようなものが、表現されている、ということです。

 

おそらく作詞者や作曲者、あるいは、歌い手自身も、そんなことは、意識していないでしょう。わたしの穿った見方が強いでしょうが、上記のようなことを思うのは、わたしの心が、島津亜矢の歌声に感応している、ということです。「流れて津軽」が、島津亜矢を島津亜矢たらしめているのは、彼女の歌声が、心からの叫びであるかのように感じるからです。もちろん、彼女の特徴でもある熱情が、そうさせてもいるのでしょう。けれども、わたしはこうも思っています。

 

「島津亜矢の歌声には、ははがいる」

 

たとえ女を歌っていても、そこには、大地からの呼びかけを感じてしまいます。皆さんは、いかがでしょうか?

 

 



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